「承認欲求」という罵倒語

2015年09月03日 15:24

 

今日はガンズじゃないお話です

最近…最近でもないのか、結構前からかもしれませんが、ネットでも実社会でも「承認欲求」という言葉を見たり聞いたりすることが多くなりました。


それはたいがい誰かを揶揄したり鼻柱を折ってやりたいときなどに使われる否定語として。そういう意味合いで。

一番最初に目にした時から「えっ」と思ったのをすごく覚えています。


違和感とかじゃなくはっきりと「嫌な感じの攻め方だなあ」と。なんだろうすごくひっかかりました。

「それを指摘しちゃったら、発言が自分を縛ることになるだろう。
特に息を詰めるように横の線を気にして必死に空気読んで生きてる若い子は、もうなにも表現できなくなっちゃうんじゃないの」
と思ったんです。

承認欲求がなかったらあらゆる表現は存在しないですよね~
表現=承認欲求100パーセントでは絶対ないですが、ひとさじもそれがないという表現者はほぼいないんじゃないですか…


なかったら絵でも文章でもただノートに書いたり、家で歌ったりして完結だろうし、誰にも見せたり聞かせたりしませんよね。
私は人に認めて欲しくてやってるんじゃない、というつっぱりはとてもかわいいけど、どこか嘘だと思います

 

うまく説明できませんが、「そこが非難・罵倒のポイントなのか」?なんか的外れてませんか、みたいな感じがね、してました。

でも言えない空気があるんですよね
「承認欲求ありますよ、人間だもの」みつを
って言えないんですよ。それ言ったら「甘え」って言われそうな謎の圧迫感

 

そうこうしているうちに罵倒語「承認欲求」はどんどん流通していく

言葉に出来ないこの感じ…ん~~~簡潔に説明できる言葉を持っていればなあ

 

そしたら思わず検索してましたよね(笑)こんなふうに感じる人は、きっと他にもいるんじゃないかと。
この気持ちを、感情を、誰かわたしにわかりやすく説明してくれませんか?という他力本願で…

 

ざーっと検索結果をスクロールすると、こんな見出しが目に入りました

 

なぜ承認欲求と自己愛が問題になるのか?
 

これは承認欲求を批判した記事か、あるいは逆か…と思いながらクリックすると

冒頭
*************************************
WEB上では「承認欲求」が罵倒語として機能するらしい。
その背景には、インターネットの双方向性があると思う。「創作」や「歌い手」に対してヘタクソと罵倒したら、じゃあもっと上手いものを見せてみろよと反論される。だから「アウトプットすることそのもの」を罵倒の対象にするしかない。(中略)
誰かの承認欲求を罵倒するのは、相手よりも技量で劣る人だけだ。

*************************************

 

それじゃん

 

それですけど!!!!!!それ!!!!

 

机を叩き割りそうになりました

 

ここまでお付き合い下さったみなさんには、この↑記事の続きを是非読んでみてほしいです~。

 

点と点を繋いだら絵ができるあがるこどもの本ってあるじゃないですか
あれみたいでした。こういうことだったのか…!と


本当に世の中にはすごい方がいらっしゃいますね。

つまり「やーい承認欲求」という揶揄は、そこから降りた、あるいはそこに登る気もない人が使う彼らのなかの最終兵器なんだ
ほんと、いやらしい攻め方ですよね。

 

デビュー当時のアクセルがむき出しにしていたのはかわいいおしりだけではありませんww
承認欲求もむきだしだったんですよ、認められようとする野心
だからいいんじゃん あの時にしかない、輝きがあります(おしりではなく)

 

だからね、なにかやってみようと思った時に、とくに若い人
「あらやだ、わたし承認欲求満たしたいだけ?」なんて顔を赤らめて書いたものを丸めたりギターを倉庫にしまったりしないでほしい。
あんまり内省的に思わないで、とりあえずアウトプットしてみたらいいじゃんということです。

 

むしろむき出しで来いと。
 

自分の子どもが絵を志しているのもあって、そんなふうに思った次第です。

本気の人は心配せずとも、承認欲求という揶揄など突き破って芽を出すものだと思いますけれどね。