Nectar and Cigarettes

2016年06月07日 02:30

 

もうほんとうに、サイトとは全く関係のない自分の話ですが

5月21日に父が他界しました。
79歳でした。

 

本当に元気で、回遊魚みたいに泳いでないと腐っちゃうんだろうなというほどに
座ってることが出来ない人でした

 

早くに父を(私の祖父)を亡くして、中学生の頃から
家族の大黒柱になってしまい、働きづくめの一生を送ったかんじです。

 

学校には全然行けなかったそうだけれど、
ものすごく読書家でものしりで。本当になんでも出来る器用な人で、
人から愛されまくりのおじさんでした。

 

私の学生時代の友達にも父のファンはたくさんいたんですよ~
すげえイケメンだしな…

 

1年半前に胃がんが見つかったときは、なんの症状もなくて
毎日熱心にやっていた家庭菜園やシルバー人材の仕事に飛び回っていました。

私はすぐには教えてもらえず、

電話で「ちょっとした胃潰瘍だから」とかなんとかありがちな嘘をつかれました。

 

でも、隠せるわけないんですよね。
実は胃がんであるということを暫く経ってから知らされました
…というか知らされる前からこちらもなんとなく嫌な予感はあって

 

何十年も前に父が買ってくれた置き時計が
ちょうどその頃動かなくなったんです。
あのときの「やだなあ…」という感覚、今も忘れていません

 

しばらくして、開腹手術を行いました。
手術は6時間を予定。
でも、2時間もしないうちに終了。そこで全て悟りました
手がつけられないから、そのまま閉じたということです

 

手術室から出てきた父は、
もうろうとしてるくせに
掠れた声で「がんばったよ」とガッツポーズ決めてました

 

あの時が一番、辛かったなあ。と今すごく思い出します
 

暫くは深夜に早朝に仕事の帰り道に、ただもう号泣に次ぐ号泣みたいな日々

 

私は筋金入りの父っ子で(この歳になってもね)
父がいなくなるということにすごい恐怖を小さい頃から持っていました。
その時が必ず来るのはわかっていても、死ぬってほんとはなんだか全然わからない
お友達や親戚や、周りの人を見送ってもさっぱりわからない

 

私がメンをヘラってボロボロ状態だったときも
とにかくなんにも聞かない。
黙って車に乗せて海まで連れて行って
「そんなときもあるから別にいいんだ」とだけ言うような父でした。

 

直面したら頭が真っ白になっちゃうんだろうなという恐怖もありました

 

でも、いざ直面してみたら実際はそうならなくて…
どうしたら少しでも父が長く生きられるのか、どうサポートすればいいのか
そっちに自然とフォーカスしていく

 

自他共に認めるヘタレ涙腺の持ち主でも、
お見舞いに行って父の前で涙を流すことは一度もなかったです。
帰り道は駅までの道を歩きながら泣いたけどな。電車の中でも泣いたけどな。

 

ただそれでも、「父が病気であること」が
当たり前の感覚になっていくことに、もっと言うなら
病気を抱えてる父に「慣れる」ことにものすごく自己嫌悪になりました。

 

それは今考えれば、ものごとを受け入れるっていうことなんだけれど…

受け入れてることにゾッとする。
ご飯食べたり仕事したり普通に笑ってる自分が恐ろしかった

 

そんな風に感情を持て余してどうしていいかわからないときは
同じ経験をした友達が
どれだけ親身になって心を尽くして助けてくれたか。

 

それはもう右も左も分からない自分にとっては
力強い杖みたいなもので、方向を指し示す地図でもありました

アドバイスや経験談、
苦しみ悲しみを掬い取ってくれるような言葉がたくさんありました。

 

そしてそんな言葉を聞いたときはいつも、

 

子どもを亡くして嘆き悲しみ続ける母親が
釈迦に会って「この子を生き返らせてくれ」と懇願したとき
「望みを叶えるから、ケシの粒を持って来なさい、但し一人も死人を出したことがない家からもらっておいで」と言われたという話を思い出しました

 

みんなこれを越えてきてるんだなあって。

 

それに父本人も、自分の病状を知ったあと涙流したのはほんの数日
心の中までは知りようもないけれど…
すぐに普通の生活に戻っていった。体調回復したら仕事に復帰し、畑も始めました。

 

病気は患ったけれどもまったく病人然としていない父を見て
自分も全てを受け入れて、普通に暮らすのがよいんだと思えました。


父はいつも未来のことを話し続けていました。
余命、のようなものは薄々説明されたにも関わらず
5年後はああしようこうしようという話をずっとし続けていました。
会うたびにそう言うので、なんだか本当にそうなるような気がしてうれしかった

 

ひとのことばっかり気遣う人で。
自分はなんにも食べられなくて点滴で栄養を取るようになっても
お昼になると「ちゃんと下の食堂でも行ってご飯食べてこい」と言うそんな人です。

 

体調を崩し、入退院を繰り返すようになっても
亡くなる1週間前だって、未来の話をしていました

 

夏になったらバーベキューやるって。
ベッドから立ち上がることも難しくなって、酸素吸入をしてるのに。
畑でやるんだ、花火もたくさん買おうって言ってました

 

痛いも苦しいもほんとはたくさんあったのに、
お見舞いに行けば「絶好調」しか言わない
帰り際には必ず握手をして「力あるだろう、まだ大丈夫だ」と笑いました

 

帰り際「今しかない」と思った時があって
それまでまるでお別れの挨拶みたいだから
絶対にいいたくなかった「ありがとう」をいいました

 

そしたら結局、それが最後の、
意識のある父に面と向かってありがとうを言うチャンスでした

 

最後に聞いた言葉は意識を失う直前の電話口
荒い息の下 掠れた声での「大丈夫だから」

 

かっこよすぎなんだよね…

 

意識を無くしたベッドの上の父にも、たくさん話しかけました
さすがにその時は泣いてしまったけど。

 

病室に家族が集まる中
ほんとうにほんとうに眠るように行ったなあ

 

父の首の血管が脈を止めた瞬間を見ていたのは私一人です。
ソファに腰掛けていたのに、
なんだか吸い寄せられるみたいにベッドに寄っていった直後でした

 

知らせてくれたのかなあ・・・わからないけどたぶん。

 

今思うことは、父すげえな ということと
どんな状態になってもその自分を受け入れて
できないことを数えず、できることを楽しむってことを教えてくれてありがとうね
ってことです

 

父、いま楽しく過ごしていると思う。確信してます。
だから私も楽しく過ごします。
どうせ娘に甘い父のことだからそばにいるし、また会えるんだしね。


あんなに恐れていた死に、ほんのり優しい側面があることも知りました

自分も遅かれ早かれ死ぬんだけど
その時までは精一杯好きなことします。

昔からベソベソ泣いてばっかりだった私ですが
きっと、この一年半で強くなったのかもしれない。それも父のおかげです。

バカ娘でごめんよ、お父さんw
お前もっと泣くかと思ったわwwwってきっと笑ってる気がします。
 

だいすきなネクターと煙草

お供えするから許してね。